「他者との出会い」による「日常」の侵食〜portB「完全避難マニュアル東京版」から見えてくる風景から〜

1、緩やかに「日常」から「演劇」へと誘う回路

 portBの「完全避難マニュアル東京版」では、観客を演劇体験へと誘うために幾つかの媒介を用意している。観客はまずウェブ上のHPにアクセスすることから始める。その導入方法は、それまで劇場に足を運ぶと習慣のない層の人々が演劇作品に参加するための参入障壁を低くしていると考えられる。これまでの演劇受容者とは異なる層が発見されることになっただろう。
 もしかしたら、その参加形式はある種の演劇愛好者からすれば、違和感を持つ性質のものかもしれない。けれども、現在の日本の文化風土の中において、劇場に足を運ぶという行為よりもネット上に存在するHPにアクセスするという方法の方が、日常から直結する形で劇へと誘うことが出来るともいえるのではないだろうか。他の芸術メディアにしてもそうだろうが、「演劇を観る」ためにはそれなりの素養が要求される。そしてその素養はこの国におけて「標準的な」身体には組み込まれていないのではないだろうか。

 ウェブ上のHPにアクセスした後、観客が行なうことは、山手線の駅29ヶ所に点在している「避難所」と称される目的地の中でまずどこへ行けばよいか知ることだ。占いのような心理テストのような質問の数々に、「Yes」か「No」か答えていくと、観客が向かうべき「避難所」が示される。その質問による導きによって、観客が多数の選択肢の前で手がかりもなく立ち往生してウェブサイトから立ち去る、という可能性を縮減している効果もあるのだろう。そしてここに「ゲーム性」の発露、もあるだ。

2、「他者との出会い」をゲームとして演出するアーキテクチャ

 この演劇作品は、「マニュアル」であるにも関わらず、「避難所」に設定されたそれぞれの目的地に何があるのか明示されていない。そのことはこの作品にゲーム性を帯びさせる要因のひとつにもなっている。またそれとは別に明示しない理由はもちろん、足を運ぶ「避難所」に対する先入観を介入させないためであることは簡単に予測されるだろう。
 もし、事前の情報が豊富であり、この作品がある種のコミュニティの紹介やカタログのような形で展開していたものであれば、この作品はまったく別の性質を帯びたものになっていたであろう。「ここはこういう場所だ」と名指すことは選択における基準となりえるし、知ってしまった時点でそこに赴く観客を選別してしまう結果が生まれてくるのは自明である。そこで「日常」から著しく外れていたり、または自らの「日常」を脅かしかねない場所へは足を運ぶ機会がなくなってしまうかもしれない。
 「日常」の行動習慣とは別の回路を開くこと。そのことがこの作品におけるもっとも重要な戦略として機能しているのではないだろうか。

3、ポテンシャルエネルギーを活性化させる演劇

 私たちの「日常」の行動は様々な慣習によって決定付けられている。言うなれば、いつの間にか行動は規範化しパターン化していくのだ。そして、もちろん、思考や身体性もそこに規定されている。そのことに気付くことの出来る機会は構築された「日常」の長さと共に次第に少なくなっていくのではないだろうか。様々なコミュニティや生活スタイルが存在していてもそれがタコツボ化していき、お互いがコミュニケーションを取らなくともその「日常」を生きていくことができるようになっている。そして棲み分けは無自覚なまま完成していく。
 けれども、そのタコツボ状態が常態化すると他のコミュニティへの想像力は次第に希薄になっていくのではないだろうか。その疑念の向かう先は、ただ倫理的なものだけではない。その希薄化は自らの想像力の希薄化そのものなのだ。そして、その貧困化した想像力によって生まれた閉塞感の中を私たちの多くは暮らしているのではないだろうか。それに他者を排除したまま僕たちは生きることはできない。唐突を現われる。「9.11」が象徴しているように。

 そう考えるならば、この演劇作品はネットを通じて「避難所」を訪れた観客のためのものだけではない、ともいえるのではないだろうか。その「避難所」を「日常」としている人々にとってもその「他者との出会い」のインフラとしても機能しているともいえるのではないだろうか。
 しかしながら、ここでひとつの疑念が想起される。それは社会の中で隠れ家として機能もしているコミュニティを開いてしまう、という可能性も含まれているということだ。「他者」が対処することが可能な範囲での異物であるうちはいいが、そのコミュニティが許容できる範囲を超えてしまった場合、そこにまず次の2つの反応を思い浮かべることができる。強烈な排他性に向かうかそれとも解体に向かうか。そのような力のベクトルが発生するだろうと考えられる。もちろん、演出家はそのことも想定済みのはずだ。フィードバック関係はその「個」だけでなく「場」とも成立してしまうのだから。

 「個」と「場」のフィードバックを繰り返した結果、当然のことながら、はじめの「個」や「場」のあり方とはずれているだろう。そして、そのズレこそが、おそらくはこの作品で目指されたものなのではないだろうか。そのズレがどのように機能するかはわからない。けれども、そこにある閉塞感、規定された「日常」を生き続け、想像力の貧困に陥りある時に突然、悲劇に出会ってしまうにくらいであれば、様々に「他者」との間にシャッフルをかけ、ポテンシャルエネルギーを活性化させたほうがいい。
 ただ、演出家は明らかにその「避難所」の選択において、その作品の効果の向かう方向を規定しようと試みているように思われる。それは主にアンダーグランドなコミュニティを選択している傾向が強い、ということに集約される。現代の日本社会の状況の中で、むしろ病的だと認識されがちな「場」を選択している意図。それは様々な逃走の中で形成された対処方法としてのコミュニティに、逃走元の社会の抱える問題点やその解決方法があるのではないかという期待が重ねられているのではないだろうか。しかし、その問いの答えは「場」を共有したひとりひとりに委ねられている。それもまた一つの作家としての倫理的な態度のように思われる。

4、「場」と「個」のトランスディクションへ

 本作品は様々な観点から語り得る懐の深さがあると思うが、フランスの社会学者、ピエール・ブルデューのいうところの「文化資本」や「界」の理論の文脈から、この作品の行なっていることを観るとまた別の風景が立ち現われるのではないだろうか。
 ブルデューは「文化資本」や「界」の理論を社会変革のために使用される概念として提示した。けれども、それらの概念は社会の成り立ちを説明こそはすれ、改革のために使用される、というところまではなかなか人を導くことは難しい。人は安定を求め、リスクとコストのある不安定な状態を好まないからだ。けれども、「界」が変容する、ということは不安定な状態を経由しなければ容易に到達しえない。それであるならば、その安定性を失う状態にどのように観客を誘えばよいか。その答えのひとつはここにあるのではないだろうか。
 事前に「日常」からシームレスに演劇体験に繋ぐこと、どのような出来事が起こりえるかを事前に情報として伝えないこと、ゲーム性を導入すること。参入障壁を下げていく戦略をとりながら、狙われている劇的経験はとてもラディカルなものである。
 本作品は演劇の持つポテンシャルへの正統な挑戦であり、間違いなく日本に置けるアート史、演劇史におけるメルクマールとなる作品であろうと考えられる。