ムヤミやたらに失踪する日記、及びそこに含まれるその痛みについて。

 人にはそれぞれ何か属性のようなものがあって、それはもう自分自身ではどうにもならないところというのもやっぱりあって、色々と立ち居地も模索しながら、自分の位置にあうようなところをさがしていくのだけれど、その「合う」ということと、自分がいたいと思うところというのは異なっていたりする。そんな中で、いろいろと葛藤しつつも諦念にいたったり、またそれが頭に浮かんできて、煩悩の波にさらわれたり、言ってみれば、僕たちが生きる上での幅や深みとなってくる感じることもあるのだが、そう思うことで、何だか安っぽい人生論に回収されてしまうようでそこから逃れたくもある。
 何だか抽象的で生産性のない自己内会議のように見えても、それが生きていくことの主題となっている人もまたいるのだ。それが、例えば僕にとっての文学となったりもして、けれどそれは近代日本文学の問題系で、柄谷行人が宣言するまでもなく終わっていたりもするのだ。ということは、いまだそこに留まってしまっている僕は時代遅れな存在ということになるが、それを自覚しつつもその問題系にとどまることを宿命づけられたような立ち居地で何か有用なものを発信しようと、甘く考えているうちは、僕はすでにそこで敗北をしているのだ、どうしようもなく。
 まるで自分が全ての始まりのように振舞い、全て自分で選択した結果であるように振舞うことを運命愛と呼ぶのであれば、そこで僕は愛のない存在となるっているということになるのか。まるで無限のようにも感じるこのアップダウンする感情の中で、暮らし続けることへの思いというのは、〈我ー汝〉の非対称な関係の中で、どんなに耳を澄ましても聞き落としてしまうような他者との交わりの音を想像しながら、それに形を与え紡ぎ出していくとこしか出来ないだろうし、例えその行為がささやかで消え入るような種のものでも続けていくしかないのだろうと思うのだ。
 おそらくはそこにしか僕にとっての生はないし、それはもはや選択の余地もないことのようにも思われるのである。