「CLANNAD」にみる擬似家族の問題について思ったこと。

実際の家族から得られない理想的な家族像に対する満たされなさというものがあふれている。

それは、家族というものが持つ精神構造に対する機能が不全であることが現れているのか、
メディアが垂れ流す家族像からの阻害が大きいのか、はたまたその両者か両者でもないのか、ということはたいしたことではない。

癒しの場、自分が社会に向き合う時に力になるような背中を押すようなものが希求され、それは語られない中心のように登場人物はその中心の周辺をくるくるとまわる。
その希求が満たされ得ない時、それぞれ満たされなさをもつ人々が集まり、擬似家族を形成する、、、そのあり方というのは、たぶん随分と前からあった話しだ。
例えば、新興宗教に入信して共同生活をおくる人だとかもその例のひとつだろう。
また、自らで本当の家族を構成していく人もあるだろう。
けれども、特に学校が舞台となる作品の中で中心になるのは、
そのような家族を構成することが困難な理由を持つ人々が擬似家族を構成していく場合である。
そこがおそらくは、学校社会に所属しない人にとっても重要な点であるのだ。
学校社会という緩やかな管理型社会の中でそれは育ませる。

家族や社会の中で傷つき、一歩前に進み出せないでいる心たちの傷の再生を促し、自分が生まれてきたこの世界に向き合うこと。
そういった機能が作品の中に含まれているように感じる。
ちょっと恥ずかしい言い方をすると、生きることの為の勇気と希望のレッスン。
漫画やアニメにそのような物語の機能があるとするならば、それは決して閉じた構造のものではない。
切ないまでの社会性がそこにはある。
その意味で「おたく」も閉じた存在ではなく、とても社会的な存在なのだという視点がこれから求められるのではないだろうか。

傷の再生、生きることに対する勇気と希望へ。
立ち向かうべきは家の中にはないのかもしれない。
そこからは逃げていいんだ。
他人に対する信頼と警戒。
管理型社会のあり方、理想像。
共通のキー。
無条件の受容。
個人に対する内政不干渉のあり方…