『思想地図』シンポジウム(6月16日、新宿紀伊国屋本店7階、東浩紀・北田暁大・姜尚中・宮台真司・鈴木謙介)のレポたちを読んで。

たくさんの誤読可能性も含んでるのも承知で、僕の感想をつれづれなるままに。
ひとつの散種の結果の散種として。ぷい。

デリダの歓待の論理は、全てを受け入れようではなく、友と敵の境界を壊せということ。」
「社会、政治というアリーナは知を集めるひとつのシステムとして存在している。分散している断片的知識人をうまく集めるシステムにするべきでは?人間を集めるのではなく断片的な知を集めるべきでは?」
「その境界を壊すためにも、システムが社会を回すほうがいいってこと。」

これは東浩紀さんが発言されたとされているところ。

専門家(技術者)とアマチュアがゆるくなだらかに繋がっているシステムのことを思った。これは頭のいい人たちの集団ではもうやられていることですよね。
なんかYCAM(山口情報芸術センター)ってそんな感じだよね。秋吉台国際芸術村は、おもいっきり断絶してるみたいだけど。役人、市民、学芸員が。
ただ、そのシステムを回すことで友と敵との境界線は壊れるのだろうか?特権的な地位にあるものを無人化するということによって、明確なヒエラルキーが解体することはあるかもしれない。が、やはり既得権益を守る大小の集団の存在は消えず、境界線は強固に残る。やはりそれは専門集団。そして、結局、集団間のミクロな闘争の繰り返しによって、住み分けが可能になるのではないだろうか。生存の条件が思考の根っことはそういうことなのだと思う。
なので、感覚的にですが、現状としてはゆるく繋がれるところは結構限定的にならざるを得ないのではないか。その思想を偏在化するには、まだ多くの前提条件をクリアしなければならないだろうと思いました。
でも、役人とか公共の機関がそんな風に変わっていったら、色々変化はあるだろうね。つまりそこのところなんだろう、このシンポジウムの議論の対象って実は。テーマが「公共性とエリート主義」だし。
当たり前だけど、リバタリアンは国家を国民の為のサービス機関と考える傾向があって(メタ的であることを放棄しているという意味で)、僕もやはりそう考えていて、その為にもいわゆる厚い「社会」が必要なのだと思う。
ということで、僕の関心は以下に続く。

ニート支援(とかワーキングプア支援とか)も、グローバル化と個人が直接向き合わないために必要とされている。EUでは(そのことがちゃんと理解されているので)、ニート支援というのは、社会の分厚さを保つため(社会の自立を促すため、社会が国家に依存しなくてすむようにするため)に行われている。」
「日本ではそのことが理解されていないので、ニート支援は個人の自立を促すためのものになっている。」

国が何とかするでは、当然国に対する依存度が上がる。
国家が強くなり社会が弱くなれば何が起こるのか。
リヴァイアサン暴れる。
例えば、国民から国家への作用する法としての憲法を、国家が勝手に変えてしまうとか。そんな状況が容易に生まれるのはやはり「社会」が弱いから。社会が国家をコントロールすることをやめるとはそういうことだ。

ということで、レポを読んで僕が思ったのは、「ポストモダンの政治的介入」。
フランス現代思想のコンテクストでは、ポストモダンとはもともとそういうものだったはずだ。
それを日本においてやりなおす、と。
つまり、思想はただの気分ではないということ。

あと、やっぱりエリート(設計士)の評価基準設定の問題。