「『ダークナイト』でのジョーカーの輝きはヒース・レジャーの熱演が理由ではない〜ヘブライズム(神義論)とヘレニズム(逆神義論)の反復する対立と西洋的なもの」(MIYADAI.comより)の要約

「『ダークナイト』でのジョーカーの輝きはヒース・レジャーの熱演が理由ではない
ヘブライズム(神義論)とヘレニズム(逆神義論)の反復する対立と西洋的なもの」(MIYADAI.comより)の要約

「悪を犯させる存在」というモチーフは直ちに、エデンの園でアダムとイヴを唆した堕天使ルシファーを想起させる。
弁神論Theodicyの言葉を作ったライプニッツ『弁神論』(1721年)は、人間の不完全性ゆえに課せられる試練(神が用意した学校)として悪(不条理)を捉える。とするなら、悪は「神の計画」であり、真の意味での悪ではない。
シュライエルマッハの整理を踏まえていえば、「神の計画」を持ち出して合理性によって悪を説明する立場は「主知主義」につながり、神は端的に何でも意思できるがゆえに悪もあるのだとする立場は「主意主義」につながる「なぜ反秩序(例えば犯罪)が存在するのか」という常識的な問いを逆転させて、「なぜ秩序が存在するのか」を問うのが、社会学の思考伝統である。

秩序が通常で反秩序が異常なのではなく、逆に反秩序が通常で秩序こそが異常だと見做すのである。
ホッブズはいみじくも人々が殺し合うのが自然状態だと喝破した。むしろ社会状態(秩序)こそが、卵が立つが如き、ありそうもない事態だ。デュルケムも、自殺や殺人の存在を「常態」と見做し、神義論に注目するウェーバーも、受難の存在を「常態」と見做した。

「〈世界〉が(よって〈社会〉が)出鱈目である以上、人はそもそも悪であるのが自然だ」とする性悪説に類似した発想。
なお、〈世界〉とはありとあらゆる全体のことで、〈社会〉とはあらゆるコミュニケーションの全体のことだ。
即ち人が善なる振舞いをするのは、自分が善人だからではなく、他者たちがおおむね善人だとの想定(予期)ゆえに、善なる振舞いをしても損しないと見込むからであり、ゆえに、この予期の地平が破れれば、損したくないので善なる振舞いをやめるはずだと見做す。

そうした心理学的関心よりも、予期の地平が崩れれば社会が一挙に崩れるのを確証しようとする社会学的関心が、優位だ。
ジョーカーはルサンチマンを表出する者であるより、幻想にすがるがゆえに傷つく者を救い、そうした者たちが生まれないよう企図する、むしろ倫理的存在であると感じられる。

「規定不能性を引き受けた上で隠せ」というエリート主義の推奨。

そこに私は、エジプト的なものと初期ギリシアとの対立、キリスト教的なものとニーチェとの対立、近代哲学(形而上学)と現代哲学(反形而上学)との対立など、ヘブライズムとヘレニズムの「野合」から生まれた「西洋的なるもの」の反復を、見ずにいられない。