濃密な文化圏を構築すること、且つ、開きつつある自意識への道程と世界の果てからの視線の獲得は可能か。

環境を作り変えることと、環境に慣れること。
環境に対するこの二つの態度には、思うほどの違いはなく、体内から何か流れ出るが流れ込むか、その違いに過ぎない。
しかもそれらは、ただ流れ込む流れ出す、というだけではなく、細やかに流れ込み流れ出て、それは全体として大きな流れを作る。
その流れのように見えるものも、また星座のように物語や点と点の間に存在するとされる抵抗の線でもあるのだ。
僕たちはそれらを継ぎ接ぎしながら何とか正気を保っているのだけど、
ある時、体内と体外とが物質を交換する(皮膚から空気へ、粘膜から水へ)システムの繋がりとしてシンクロする時、
そしてそれを意識するようになると、その調和らしきものは解体していく。
そこから僕たちはそれらの断片を拾い集めて、その調和らしきものを再構築していくのけれど、それはやはり生きることに必要な作業のように思えるから。
けれど、その過程で開きつつある自意識と閉じつつある自意識の双方を意識することはあまりなく、何かが変化し現前する時、そうでなかったはずの何かがそこに幽霊のように取り付いているのだ。開放系と閉鎖系のおのおのは実際のところ両方とも閉じている。僕たちは結局僕たちであることをやめることは出来ないのだし、人に運命というものがあるのならば、それはそのことを受け入れる中にあるのだろうし、あらゆる感情、怒り、悲しみ、喜び、希望、それらは体内から流れ出すことはないのかもしれないが、そこに何か伝わる、変化しつつも変えていく流れもまた自分と認めていくことが出来たなら、この環境も恵まれたものといえるのかもしれないし、それが差異、差延の連なりの中で、届くか届かないかの海を漂うビンのようなものでも確かにビンはあり海はあり届けたい対象がある、ということだけで、おそらく、僕たちは幾らかは救われているのだ。たとえ、今、希望を語ることがとてつもない暴力になるとしても、その声は、どこかにかすかに弱く響き続ける種のものだと思うことに幾ばくかの罪が含まれているとしても、多分かたちを変えながら続いていくのだ、それは、環境を作り上げること、環境に慣れることの中に響き渡っている。