ゼロアカ道場第五関門の感想。

ゼロアカ道場第五関門の観客として感想でも書こうかと思います。
このプレゼンで、僕の中にひっかかりを残した言葉をもとにちょこっと感想を。

「層状言論」(廣田周作さん)。
フーコーエピステーメーの議論が思い浮かびました。廣田さんはもともと理系の出身だそうで、その分、現在の批評の状況を距離を置いて捉えられる可能性を秘めていると思います。問題点を的確に捉え、それを解決する計画を作成し、実行することが出来るだろうという気がする。
それがこの「層状言論」という言葉に出ていて、言説のパラダイムチェンジを意識的に考えているのは、彼くらいなのではないでしょうか。他の人たちは東浩紀さんと同じパラダイム内で思考している印象を受けるが、彼にはよい意味でそこから距離が取れている感じがします。

「運命論」(三ツ野陽介さん)
「運命」って言葉は、東さん界隈では結構重要な言葉だと思っています。東さんのリバタリアン的な部分はこの「運命」という概念と無縁ではないと思うし。「運命」という概念の再構築。それを「ヒーロー」論として構築していく。僕がこのプレゼンでピンとこなかったのは、人生論をメタ的に諭そうとするような書き手の位置。実存系で攻めるなら徹底的に自らの実存をぶつけて欲しいと思うのは僕だけだろうか。上から目線では人の心をそう簡単に変えることは難しいと思う。徹底した実存にこそ人はあてられるではないだろうか。そして、社会や世界との関係を再び結び直す、と。

クレオール平面」、「現代日本文学の再構築」(坂上秋成さん)
クレオール平面に関しては、「あっ、これ誰も言ってなかったんだー」という印象でした。宇野常寛さんの言っていることと類似の関係にあると思います。
あと、日本文学の再構築について僕の考えていることを。少し突飛なことを言い出すように思うかもしれませんが、僕は日本文学の再構築の可能性の一つとして、外国人による純文学の再構築というのがあるのではないかと思っています。正直、現代プロレタリア文学とかではもう他者性を強く感じない。それらはもはやジャーナリスティックな域をでないのではないかと思っています。「外国語のように書かれる事」を僕は純文学の主要な要素だと思っていて、なら実際、外国人によって書かれた文学こそ純文学なのではないかと思います。そしてそれによって純文学が特権的な立場を維持するのではなくて、「クレオール平面」内の一つのジャンルとして存続する、と。かなり言いすぎてると思いますが、結構本気でそう思ってるところがあります。

「ファミリー・コンプレックス」(筑井真奈さん)
擬似家族の問題。これも「運命」という概念との関係が重要になると思います。例えば、生まれる先の家族を僕たちは選べない。そこに生まれたのは偶然でありまさしく「運命」。でもだからといって、そこで得られるはずだったと思うのものを事後的に手に入れることも可能なはずだ。その模索と擬似家族に対する市民権(?)の獲得のための批評があればそれは重要だと思います。あと、このテーマって筑井さんの実存と密着しているように感じる。社会学的なリサーチの入れていくところなんか逆にその印象を強めている。
筒井康隆さんの「生物学的な観点を入れるか否か」という問いに対する答えとして「No」であったのは少し残念な気がしました。

「芸術の自明性」(村上隆さん)
「芸術とは何か」という問いに対してゼロアカ門下生はあまりにも無自覚だったのではないでしょうか。自明のもとのとして「芸術」という言葉を使うのは戦略的な部分ももちろんあるのでしょうが、そこをスルーしてしまうのは、目の前の芸術家に対して少し失礼だったのではないでしょうか。自分の目的を達するための道具として、「芸術」という概念を使用したのですから。「芸術」とは突き詰めると「技術」のことだったりするんだと思いますが、そこで美しさとか抽象的な言葉で説明するのは批評家としていけてないように思いました。むしろ、抽象的なアーティストの言葉を具体的に説明が出来なければ批評家の存在はますます薄くなってしまうと思います。

とりあえず、以上です。