戯曲「あちこちから出没する〈普通〉を巡る闘争。」

戯曲「あちこちから出没する〈普通〉を巡る闘争。」 作:中川康雄

登場人物

動く人 一名
動かなくなる人 十数名

【プロローグ】

十数人が舞台の上をぶつぶつと何事かをつぶやきながら、徘徊している。始めはまるで聞き取れないが、次第に聞き取れるようになってくる。それぞれが別々のリズムや大きさ、速さで発声する。

徘徊する十数人は次第に舞台を無視し、観客席へと移動する領域を拡大する。

「…たぶん未来は監獄から構成されることになるかもしれない…、あなたの心にまだ少しでも何かを楽しもうとする気持ちが残っているなら、さまざまな社会的抵抗の行為を暴力としてよりは、むしろ新しい音楽、終わることのないラップとして感じることができるはずです。運動と音が一体となり、歌が生を、そして新たな抵抗を組織するのです…。アントニオ・ネグリ…。」
「つまり、感動することを受け入れながらも、感動にわたしを支配する権利は認めないで、感動をこれと同じ澄んだ目で観察するとき、わたしはわたしの愛を本当に知るようになるのだ。そしてこのわたしの愛から出発して、わたしは世界とのもろもろの関係を設定するだろう、そのときインテリジェンスが生まれるだろう…。ジャン・ジュネ。」
「まったく賛成できない。なんというか反権力という権力にがんじがらめにされているようにみえる…。」
「これは君のことを話しているのだ。この注意は読者に向けられていると同時に、社会学者にもまた向けられている。逆説的なことであるが、文化のさまざまなゲームは、そこに巻き込まれた人々が互いに相手を客観化しようとして行うあらゆる部分的な客観化行為のおかげで、かえってそれら自体は客観化されることから免れるという仕組みになっている。だから学者たちは、自分自身の真実をつかむことをあきらめるのでないかぎり社交家たちの真実をつかむことができないのだし、逆もまたしかりなのである…。ピエール・ブルデュー、『ディスタンクシオン』。」
「あたりいちめんに広がる避けようもない無名の実存のざわめきは、引き裂こうにも引き裂けない。そのことはとりわけ、眠りが私たちの求めをかすかに逃れ去るそんな時に明らかになる。もはや夜通し見張るべきものなどないときに、目醒めている理由など何もないのに夜通し眠らずにいる。すると、現前という裸の事実が圧迫する。ひとには存在の義務がある、存在する義務があるのだと…。エマニュエル・レヴィナス、『実存から実存者へ』。」
「…今まさに我々は、未開社会のなかで生きている。コカコーラやGMといったトーテム、呪術的な言葉、儀式、タブーといったものに囲まれて生きている。形態はなにひとつ変わってはいないのだ…、ジャン=リュック・ゴダール…。」

【第一幕 ひぐらしの鳴く場所で】

場内を徘徊していた十数人のうち、一人以外の動きがぴたっと止まる。まるで動力の切れた機械のように。

動きの止まらない一人がゆっくりと話し出す。

動く人「都市部から地方に移動した者に訪れる印象。そこで2つの異なる領域を頭に思い浮かべるのは難しいことではないだろう。1つはのどかで素朴でゆったりして、といったいわゆる「癒し」の領域。もう1つは「中心からの疎外」という領域。
 地方に住む者たちが、自らの置かれている状況について都市部へと語り始める時、この2つの領域のうち、「癒し」の贅沢さの領域を強調する傾向が強い。この傾向はあらゆる階層でも共通するものだ。
だが本当のところ、地方に住む者たちは自らの環境を、自発的に「贅沢」と思っているのだろうか。その価値というのが、都市部と地方との差異を体感して発せられるのであればまだ説得力があるが、ずっと地方に住んでいるのにそのような「贅沢」という価値が頻繁に表象されている場面に遭遇する。いったい何故そんな事態が起こるのか。」

動かない人の一人が何か声を発する。

動く人「都市部中心の、つまり消費者として強者である都市生活者の消費文化の集積の中で、商品価値として認められている「癒しの道具」としての地方のイメージ。都会生活者という他者からの視線を、自らの視線として内面化することで、地方生活者はそこに住んでいることの価値を作り上げる、といった回路。自己同一性の形成が、強い他者からの承認への欲望というようなかたちで表出する、というように。
求められる関係性を構築することによって、地方の経済や政治が築かれてきたのだから、それに対応してある種の従属関係を作り上げるのは当然ともいえる。それもひとつの生きていく知恵ともいえるだろう。だが、それだけでよいのだろうかとも思うのだ。
メディアの中に潜む力学に目を向け、こちらに向けられた視線を如何に可視化するか。その視線を受け止めた後、如何にこちら側から視線を向け返すか。
自らの置かれた状況の把握、モザイク状の組合せから既存のヒエラルキーの固定化を拒み、流動性、関係性の組み換えの方へ。
自らの生活の場から発せられる地平を切り開き、コミュニケーション行為を通じて流動性を確保。それは開かれた公共性。自己を通じて価値がどう構成され、構成されつつあるか。
自己の姿を見つめる、他者の姿を想像する。特異点でありながら構築されたものとしての自己の受け入れを通じて、自分の中に流れる情報の編集に耳をすませていく。
テレビや雑誌でもリゾート地といえば田舎の風景をよく見かける。その方向性で築き上げられた「癒し」系商品の光景。旅行代理店にふらっと入ってみれば、国内旅行ですら「旅は非日常」と定義するメンタリティの要請に応える光景が目の前に広がる。
「癒し系商品」には都市部と地方の補完的な役割分担も現れている。その商品として生産される「場」には、都市部に従属する地域として「地方」が書き込まれているし、「自分たちはそこにいる人たちとは違う」という優越感が無意識に共有されてあるように思える。少なくともそこに自らの生活空間からの意識上の「切断」は存在しているだろう。
都市部で毎日一生懸命働いて、その御褒美に旅行へ。働く、消費、働く、消費の半無限運動。市場経済の中の終わらないゲームプレイヤーたち。」

動きの止まった役者の内の三人くらいがそれぞれ何か声を発する。

動く人「強い他者からの視線や顔色を窺いながら生きるということ。あるシステムの中で自分がどのポジションでどういった役割を社会的に担っているのかということと向き合わざるをえなくなる状況。それは、一種のマイノリティという立場に置かれるということを意味するのではないか。マイノリティ、つまり、いまだ名付けえぬ者としての地方生活者は、既存システムの変革の大きな原動力となりえるだけのポテンシャルを秘めている。
 そんな意識の後に到来する困難さ。その困難さの構成要素として、主たる情報の生成に直接に関わっていないという感覚を挙げることができるだろう。主要な情報の記述・編集・生産の時点で自らが関わっていないという感覚。関わるのは再生産。実生活と歴史の生成との間にある差異を対立概念のように並べてしまう。まるで生成されたものはただスペクタクルであるかのように。「自然」に形成されるという感覚の強力さ、知らず知らずの同調圧力の発生。時代の流れにしても、少なくともヒトの社会はヒトのひとつひとつの選択によって形成されている、と考えるのがそれこそ「自然」ではないだろうか、と普通に思える。
地方生活者は、都市生活者との関係を結び直さなくてはならない。それにはまず同じ舞台に立つことが必要だろう。」

【第二幕 愚痴から始まるエトセトラ】

動く人「情報の少なさや不特定多数に対して商業的に成功するものだけが街を構成しているような感覚。街を歩いても時代のエッジを見た気がしない。当たり障りのないものばかりで構成されている。生成変化の緩慢さ、既視感覚、中途半端な近代感覚。
特に東京などの都市部に長期間住んだ経験がある者にとって、それらは苦痛として経験されることが多いだろう。そこから発せられる愚痴は私たちの周りを見渡せば探すのにそんなに苦労はいらない。けれど大抵の場合、それらは単なる表出に終始していて大きな社会的な力にはなりえてはいない。そしていつのまにか、その違和感、抵抗感は失われていく。だが、それは地方における見えない大きな資源の喪失なのではないだろうか。それらを地方の文化に汲み上げる回路を私たちは持っているのだろうか。
「中央」と「地方」との間にある利便性や情報の格差。例えば、目に付く書籍の分量について。都心の大型書店の最上階から地下まで本を眺めるだけで、少なくとも国内におけるそれぞれの業界の話題の本の情報は入手できる。自分の欲しい情報が専門的に書かれている書籍を見つけることができる。比較的容易に短時間に。書籍の揃い方も「地方」の図書館よりもかなり良い。分量の問題は、それぞれの分野の全体像の構築や立ち位置の確認作業の阻害にも繋がっていく。
映画においても、都市部ではミニシアターが複数存在し、マニアックで意味があるのかないのかわからない作品から映画史を語る上で重要な作品まで幅広く上映している。地方では、表面的な娯楽映画や子ども向けの映画が大多数を占めるという状態で、観る価値のある映画でも採算があわない映画でも流す、ということが少ない。そうなると、受け手、消費者から見れば、それしかない、それしか知らないということになる。大衆消費型の映画以外は知らない、知る機会がないという風に。こういった情報の受容可能性における諸問題は、もちろん書籍や映画だけの問題ではない。演劇、音楽、絵画等のあらゆる文化分野にも共通する状況と言えるだろう。
次に差別意識について。「地方」では価値の序列が固定的で、そのヒエラルキーからはじきだされる言葉にはちょっとギョッとさせられることがしばしばある。僕のように都心の大学でフランス現代思想などのいわゆるリベラルな学問をそれなりに学んできた者にとって、「地方」で暮らすことは耐え難い言説の中で息をひそめる被抑圧者であるような気分を味わうことになってしまう。マイノリティを擁護する振る舞いすら差別の対象になりえる。
クィアはおろかジェンダーに関する知識も認識のないところに放り込まれることになったのだから、その放り込まれた状態を苦痛に感じるのは当然のことだ。その中に同性愛者や障害者などのマイノリティでもいればそのコミュニティーの中で下位に置かれることになる。そして何か自分たちにとって不都合なことがあれば「ああ、やっぱりあの人は〜セから」といったことになって、その価値は補強されていく。被差別者はその地域でのヒエラルキーの安定の為に利用されるスケープゴートでもある。
また、中国人や韓国人に対しては妙に優越意識を持っていたりして、しかも身近な他国として表象されるのはそれらの隣国までで、想像力が広く世界には開かない。長期に渡って均質な社会で暮らし続けることから生まれる他者への想像力の不在。自分たちが「先進国」の人間でそこに帰属するという意識があるゆえに、いわゆる「後進国」と呼ばれる国の人々に対して優越感を持ち、そこを差別化することで自らの精神の安定をはかろうとする。
けれども、その優越感は正当性に耐えうるものだろうか。例えば、中国の北京や上海、香港のような都市に比べれば、日本の地方都市の大部分は田舎に等しい。明らかに日本の地方都市よりもアジアや中南米等の都市部の方が都会だ。それにも関わらず、日本というナショナリティの枠組みの中で自らを同一化させ、優越感の補完先にする。
もちろん、その同一化に政治的・経済的・法的根拠がないわけではないだろうが、実際の生活は明らかに日本の地方都市の方が、「後進国」と呼ばれる国々の都市部よりも「田舎」だ。」

【第三幕 ある声が欠けていた】

動く人「ここまで「地方」に住むことの否定ともとられかねない思索を続けてきたが、何かを批判するというのは、批判する価値があるもの、根底で肯定しているものこそに向けられるものであるはずだ。よって、この否定性は既存の言語体制における遺産相続を内包する。つまり、今あるものをより善くしていこうという志向性と同義だということだ。
文化的な基盤の問題もあるが、いわゆる欧米文化圏内に自らを同一化している傾向を良しとしないわけではなくて、地理的に見れば山口など東京どころか大阪よりも韓国の方が距離的に近いし、その地理的条件は無視できるほど小さなことではないのではないかと考えるのだ。
地方におけるアジア圏に対する関心の低さや差別意識は日本が十分に「先進国」になっていないことを表してはいないだろうか。何かその場所から排除され、見えなくなっているものはないだろうか。」

【第四幕 変化に対応する思想の生成へ】

動く人「それは、東京を「上」(カミ)と呼ぶような感覚にも表れている。さらにその上に「お」までつけたりする。東京の人々もまた「地方」を「下」(シモ)という風に視線を送り続ける。
会話の中で、そういった価値体系から発する言葉を聞く度に、気持ちが悪くなる。なんだかそういった思想がその言葉を通じて自分の中に入ってくるような感じがするからだ。金や思想が流れてきて自分の体内に入っていくという感覚、それに抵抗できない隷属意識。無力感。そういったものが体の深いところを駆け巡る。
けれども、そんな状況の中であるからこそ、「地方」から批評をすることに力が与えられるとも言えるのではないだろうか。マイノリティの当事者として、強烈に知識や経験を作用させることが可能なのではないか。文化的闘争の場として「地方」というのはアクチュアリティにあふれる場所なのではないか、とも思うのだ。
メタモルフォーゼの準備は少しずつ整いつつあるようにみえる。今、地方の文化生成に必要なのは「時代の変化に対応する思想」ではないだろうか。その思想を持ってして、都市部と同じ舞台に立つことになる。それは公共空間の再編を意味するだろう。それぞれの立場からなる声の、多種多様なる声の歓待。」

【第五幕 挑発する知性のためのガラクタたち】

照明は落ちたまま。

動きの止まった役者の全員がそれぞれ何か声を発する。劇場は舞台、観客席ともども、まるでジャングルの中にいるようになる。

照明が点く。

動く人「時代の変化に対応する思想を生成するために幾つかの戦略を立ててみよう。まるでガラクタを寄せ集めて道具を生成するような仕方で。ヴァルター・ベンヤミンのように。
目的と行動と結果の間で起こるずれを細かく肯定的にとらえること。特定の思想や目的や、集団意識を持たない群れのネットワークの形成、あくまで個人であり、個人ではないようなあり方の模索。
安定した空間に理由が言語化できない違和感や異質感を与える戦略。何故、それを抑圧と排除の対象とするのかを考えざるをえない状況を意図的に作り出すこと。怪しさや不気味さや突き抜けた強烈さを地方に。それらが内包され共存される地域へ。均質ではない人たちの均一化への食い込み。ちょっと無理して自らを均質化の過程の中にねじ込むこと。
テレビ文化からの距離のとり方が都市部との距離のとり方の重要なポイントになる。地方におけるメディア・リテラシーの再構築。中央から流れてくる情報の受け取りと変容のあり方。テレビで流れてくる情報をパロディ化やアレンジを通して自分たちの遊び道具にしてしまおう。
ただそこにいることによる闘争。そこにいることの違和感を発生させ、他者の視線を異化すること。不安定にさせ、意識していないものを一度ひっぱり出してみること。地の利はきっとあるはずだ。
確かにすぐに触れられる情報の量や強度が限定されることは、その受け手である人の可能性を規定してしまうことに直結する。だが、それらの情報の流れを受け入れつつずらすことでそこから多様性を生み出すことができる。意図的な誤読を発生させオリジナルの意図を超えていくこと。散種。あらゆる文化ジャンルのDJとなりリミックスすることを快感に。編集的な行為に強烈な強度を。
空間を作り出すこと。空間を作り出すことは、もちろん抽象的な仮想空間だけではなく実際的な空間の有効性も重要だ。金銭や権力のあるなしで使用できるかできないかを決めることのできないフリースペースを多数、出現させる。物理面でも情報面でも張り巡らされた既存のコードにスクランブルをかけ続けること。それらのリゾーム状のネットワークを通じて、既存文化のパワーバランスをゆるがす。」

沈黙する。それ自体がエネルギーの蓄積であるように。動く人、落着きなく歩き回る。

ラッパのような音が大きく鳴り響き、全員で一斉に声を合わせて発話する。

「強弱関係なく他者の詩をたとえ理解できなくとも了解することのできる公共空間の生成を。複数のアイデンティティ、複数の年齢を持つ人々によるネットワークを駆使した生活創造行為を!

世界中の古今東西の情報を地方にぶち込め!

新たな体系化の為のカオスの中へ!

「中央」と「地方」との関係性の再構築へ!

「中央」で面白そうなことやっているんだったら、「地方」も「中央」が羨ましがるような面白いことをやっていけばいいということだ!

そして、「群島」的世界へ!」

動く人以外の発話がピタッと止まる。

動く人「我々は勝つ!我々は勝つ!我々は勝つ!」

声は虚しくこだまする。動く人、苛立つように頭をかきむしり、落着きなく歩き回る。
動く人が固まって動かない人たちとコミュニケーションをとろうとする。動く人の動きが次第に緩慢になってゆき、やがて止まる。

ただそこに時間だけが流れる。

風の音。

動かない人の内の一人が、始めはぶつぶつと聞き取れない声で、そして次第にはっきりと、プロローグを呟きながら徘徊し始める。

                     【幕】