「サマーウォーズ」の感想、動物化、サバイヴ、そしてその次に見えてくるものついての走り書き(注:少しネタばれ気味)

地方の旧家の一族から広がっていくイメージ。この家族という存在。作品のクライマックスシーンで、所属する巨大な仮想世界のコミュニティ(つまりOZシステム)にまで拡張させているようにみることもできる。そのOZというシステムに利用する、アカウントを持っている人たちすべてにまでその「つながり」は広がっていく。最終的に「つながり」は「血のつながり」という側面は多少相対化され、人と人とのつながりといったふうに一般化していく。

確かに現代の都市部に住む若者の生活の中ではこのようなコミュニティイメージは、スペクタクル的、且つ、異郷にあたるような場に生きているのかもしれない。そして、もし、この作品を旧来の家族のイメージと重ね合わせし、それに巻き込まれ封じ込まれ、それ以外の想像力を認める為の隙間が見えないのなら、もしかしたら僕たちが失ってしまったもの、もしくははじめから持っていなかったコミュニティイメージの中をあなたがまさに生きていることの証明であるのかもしれない。

作中に登場する妾の子「侘助」という一般的にはネガティブな役割を担うキャラクターが、疫病神のように描かれているシーンがある。ここに現れたこの家族とそれ以外の境界線から如何に滑らかに逃走線を描く可能性を残したか?それは「愛」という概念の探求に接続していくのかもしれない。そこについては作品からはよく読み解くことができなかった。「愛」による正当性の保障と包摂。それはハッキングAIであるラヴ・マシーンとの「こいこい」対決に際してその対決方法に「ウチらしいじゃないか」という発言をもって答える妾の子「侘助」の発言にさりげなくその機能が表現されている。

この作品から擬似家族の可能性を読み込むことは容易でないかもしれない。けれども、いわゆるセカイ系の〈君と僕〉の関係の問題が直接に世界の問題につながっていく構造に第三項を挟む存在として家族たちをみることもできるし、イメージしにくい遠い他者を、イメージしやすい関係性のものからの同質の接続を配置することによって、スムーズに駆動していくように機能させているようにもみえる。

ここでは、もう既に動物化なんて社会的には対して問題ではなく、サバイブなんて自意識強すぎるし、もっと問題を集合的に解決して後はご自由にというかそういう見方によると「パートタイム・サバイブ」とか「パートタイム・動物」とかそんな感じがあってるのではないか。

そこで、それらを包摂する概念として必要なことを僕は次のように考える。

「愛」という概念の機能を考えていくこと。「愛」ということばを語らずに「愛」を色々な側面から探求すること。それがセカイ系とサバイブ系を包摂し次に姿を現わすパラダイムに含まれていれば、批評はたぶん死なない。

僕にはそれこそが「イマココ!」であるようにみえてならないが、みんなはどう思うのだろうか。