【Twitterメモ】『1968』(小熊英二)に対する応答について。

小熊英二の『1968』。資料の選び方、使用の仕方、そして結論に至るまで、左派系界隈からの評判がすこぶるいくない。

しかし、しっかりとした応答を形として出していってほしいと思う。当事者だからこそ沈黙してしまうのであえば、それは少し見えざる他者の視線に対して、感傷のベールをかけてしまっている部分もあるのではなかろうか。彼らが目指した「政治的な」「社会的な」ものとはなんであったのか。

少し挑発するような言い方になってしまうけれども、その沈黙にある種の欺瞞を感じてしまうところがある。語れる人もいて小熊さんの『1968』のような仕事をもっと精緻に出来たのではないか。自分たちの遣り残した仕事を下の世代にさせておいて、部分的な揚げ足取りはどうかと思う。

でもまあしかし、部分的な批判も誤読もその作品を豊かさを作りあげるものといえばそうなのだ。となると、つまり、その作品を批判しながらそれにぶら下がっている、ということにもなるのではなかろうか。批判と肯定。そして歴史は綴られていく。

小熊英二が80年代のフィルターを通じて60年代をみている、という件。

「実存」と「政治」の問題を完全に分けてしまうことの無理感。当事者主体で、一元的な価値や個人の「社会における」全体性の喪失の時代の中では、当事者の声を発することが「政治」で重要な課題なような気がする。それはまた、「実存」と不可分なのもではなかろうか。