【メモ】 「小さな世界」に閉じこもることが、なぜ悪いのか?」(対談:宮台真司、森岡正博)

筑摩書房「PR誌ちくま」の宮台真司氏と森岡正博氏の対談が興味深かったので、そのメモを。

http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/277/


「オピニオン・リーダー」の概念で有名な社会心理学者ポール・ラザースフェルドが、一九五〇年代に「コミュニケーションの二段の流れの仮説」を提起。それによると、世論形成において、メディアの影響力はダイレクトに個人に届くのでなく、まず小集団のオピニオンリーダー層に届き、そのリーダー層が集団内のフォロアー層に影響を与えるという。

この仮説の暗黙の前提は「社会的な場」。

かつて、オピニオンリーダー層とフォロアー層が意見を交わす場があり、オピニオンリーダー同士が意見をかわす場があった(ハーバマスの言う「コーヒーハウス」や、サロン)。

論壇誌に載った難しい論文について「あれは難しかったな」と誰かが言うと、「いや、あれはね」と説明する人がいた。でも、いまはそういう場が消え、結局、論壇誌自体が需要されなくなった。

逆にネットでは、アルファブロガーオピニオンリーダーの役割を果たし、ホットな論点を整理してくれています。

でも、ネットは「摩擦抵抗の低いメディア」で、人の目を見られないといった「表出上の困難」や、ずっとイジメられてきたといった「尊厳上の困難」を隠せるので、誰でもコミュニケーションできます。だから、趣味が同じだとか、同じ話題やブロガーに興味があるといった、ピンポイントの共通前提で繋がれる。そう考えると、「コーヒーハウスを前提としたマスメディア」と違って、開かれた場にはなりにくい。それがいまのメディア環境ではないか。

インターネットが出てきたときに、市民運動の強力なツールになると期待されましたけど、実際は「島宇宙化」が起こっています。

賛成と反対が極度に対立している場合、ネットは全然機能しない。

私と同じ考えの人は一瞬でつながって、最新情報も共有できる。でも、それは島宇宙になってしまい、外には届かない。と同時に、別の主張を持つ人たちが何を考え、どう動いているのか、部屋に座っているだけではまったくわからない。

それは、論壇的な場が消えたから。そうした場があれば、Aという考え方と、アンチAという考え方があるということが可視化されて、優先的に議論すべき点や根本的な思想の対立点が何なのか、みんなで共有できる。

政治的にはどちらかに決着が付くけれども、論争相手が大切にしていた点を織り込みつつ決着させるというソフトランディングができる。

論壇的な場の喪失に加えて、ネット上で議論を彫琢する方法を我々がまだ見出していない。

「この問題は賛成・反対では済まない、A案からC案までの各案の要素を複雑に組み合わせなければ解けない問題だ」と、一段深い理解へと繋げていかない限り、有効な議論にはならない。

実際に取材して一人一人に話を聞くと、取材対象にはそれぞれの事情があり、取材する僕らに「感染」が起こる。大事なのは、対立する立場がある場合、両側に寄り添うこと。

一九二〇年代にカール・マンハイムが展開した「浮動するインテリゲンチャ」という議論は、「知識人はどの立場にも寄り添う役割を負う」ということだった。「浮動するインテリゲンチャ」はどこにもコミットしないと理解されていますが、間違い。

出版をはじめとするマスメディアは経営が厳しくて、長期的な視野が持てずにいるし、ネット上で創造的な議論を展開する方法もまだ見出せていない。

サロンやコーヒーハウスに相当するものを出版社が提供できたらいい。サロンのいいところは、互いの意見を開帳して終わりではなく、そうした場を継続させるインセンティブも提供していた点。合意に達しようが達しまいが、意見を交わしたという事実性が意味を持つ。社会にはいろいろな意見がある。しかし、両立しないものが共生する場が社会。

一九九〇年代後半にネットが拡がるが、そのずっと前からニュータウン化=コンビニ化で「新住民的なもの」が広がり、雑多でノイジーなものが排除される傾向が強くなった。見たくないものは絶対に見ない、という「過剰なゾーニング」が拡がり、社会がどう回っているのかを理解できない人々が増えるようになります。


ネットで検索をすると情報が得られる時代に育つと、「なぜ自分は、いまこれを知ろうとするのか」という理由が必要になる。でも、その答えはわからないまま。僕らの頃は、マルクス主義近代主義精神分析学と構造主義くらいしかなかったから、目移りすることがなく、「皆が知りたいことが知りたい」で済んだ。

いまの古典ブームは、「流行にとらわれることなく、本当に自分に必要な本を読んで、揺らがない存在になりたい」という欲求の表れ。

昨今では、「教養=自己形成」に関する不全を、本人が自覚していますから、なおさらそう。だからこそ「実用を超えた教養=自己形成」へのニーズが高まっている。