〈反近代(左派)≒アナキズム〉と〈近代(左派)≒アーキテクチャ批評〉の両立は可能なのではないか。

反近代とは汎合理主義的な発想に対するアンチとして打ち出されるものだ。合理を追求すると結果的には非合理に出会うこととなる。よってその合理を手放す、と。しかし、合理といってもその基準は多様なはずだ。合理には複数の価値基準がありえる。何らかの結果に対して合理は立ち現れるものだからだ。たしかに価値基準の一元的な合理主義は無理がある。けれども反近代にもまた別の合理主義は内在する。それが近代と呼ばれる時代における合理とは異なる、ということなだけだ。

〈反近代(左派)≒アナキズム〉における社会設計は混沌(カオス)に対する信頼に依拠する。それが信じられるかどうか。それが重要なことになる。つまり、人が社会設計を意図すること自体に無理があると考えるということ。そこにこの思想の倫理と合理主義がある。

一方、〈近代(左派)≒アーキテクチャ批評〉における社会設計は、個々人の価値観や生き方に対しては基本的に言及しない。それはそこで生活する個々人が自由に暮らすことを前提としている。そして環境に対する想像力を成長させること。その上で、その自由を侵害しない「器」の構築について考えていくこと。それが現在のアーキテクチャ論であるのだと思われる。

前者は個人としての倫理を重視し、後者はその個々人の倫理や自由を持続的に守ることのできる社会の器についてを考える。

前者は思想として後者はそれを可能と社会設計の模索として捉えると、この2者の立場は並存することが出来る、と思うのは僕が楽観的過ぎるが故だろうか。