「新しい政治性」についてのメモ。

日本的想像力→ポストモダン状況の徹底した想像力。その先進性を考えること。
10年代→新しい「政治性」の設定、関連付けを考えていくこと。「ネオテニー化」という成熟。

システムと実存の切り分け、政治と文学の切り分け。

現在批評にはアーキテクチャ派とコンテンツ派との2つに分けてしまう傾向が生まれている。宇野常寛さんはこれを繋ぐ回路を作っていきたい、という。それが10年代の想像力といういうことになる、と。10年代は「システム改変的想像力」へ、ということか。

気になるのは、「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」や「素人の乱」界隈の政治性とどのような形で距離を取っていくのかということ。言動を政治に伝える回路という点では、そのあたりの論壇のノウハウというのものがそれなりに既にあると思われるが、そこで知覚されていない「政治性」なるものを生成・構築・言語化していくということか。宇野さんはそのあたりの人々の活動は文学の領域に留まり、政治には届いていないのではないか、という。では文学の域を出て政治に届けるためにはどのような「政治性」の設定がこれから必要なのか。この日本的な状況を生かす語りで政治性への想像力を作り上げていくということはどういうことなのだろうか。

そしてもうひとつの政治性の構築のありかたとして、この日本に政治的なダイナミズムがないのならそれを欧米諸国のように作りあげていくことも可能なのではないかという発想も考えられうる。

この2つの政治性の設定、それは「ストリート系現代思想」と「オタク系現代思想」との「政治性」の違いということにもなるのかもしれない。

「ストリート系現代思想」ではこれから日本が社会の厚みを獲得していく中で少しずつ現実味を帯びてくる政治性のあり方を提示しているように思われる。一方、「オタク系現代思想」の流れからの政治性についてはその反対に社会の厚みの無さから獲得される政治性という風にも考えられる。

それはもしかしたらライフスタイル違いからくる「政治性」の表象の違いかもしれない。そうすると「政治性」の多様性の設計がこれからなされていく、ということか。

「ストリート系現代思想」においては「政治性」の設定はある程度つくられているように思われる。それは国外に依拠する思想家や活動家が存在するからだ。「オタク系現代思想」の設定する「政治性」は確かに参照項が存在しないように思われる。もしそれが言語化されていけば、大きなプラットホームとして機能していくのかもしれない。未だ、「現代日本」の現代思想はうまく言語化されてはいない。現状から未来を構築していく言語を獲得していくこと、想像力を獲得していくこと。それが10年代の僕たちの進むべき未来なのだろうか。多くの残された課題をひとつひとつ真摯に取り組んでいくこと、その地道さもその想像力の回路に組み込んでいけたらいいなと思います。