今更ながら「ゼロアカ道場」について。

僕も参加していた講談社BOXの「ゼロアカ道場」。

ゼロ年代におけるフラットなゲームボード上のバトルロワイヤル状態の表象としてみることもできるこの「ゼロアカ道場」ですが、結果として生き残るためのサヴァイバルの側面が強すぎたのではないでしょうか、というのが僕の今現在の評価です。

つまりゼロアカ道場において、個々人の思想やアイディア、文章の精緻さを競うという建前が選抜の基準であったのだけれども、結果としてそこに立ち現れたのは如何に勝ち残るか、選考者や編集者に選ばれるかであって、その有様が前景化していたのではないかということです。そこにおいては個々人の思想やアイディア、文章の精緻さによる選抜だけが重要なファクターなのではなくて、その個々人のキャラクター、それもまた最重要視されたということです。このような選抜のあり方が読者に目に見えるようになったことは確かに批評界において重要な現象だったと思います。けれども、それによってキャラクター重視の側面が強まりすぎてしまい、純粋に思考の強度を競う形になりにくくなった、といこともいえるのではないでしょうか。

そのこともあり、バトルロワイヤルで勝ち残った者が批評界の市場にデビュー、ということだけをゼロアカの成果、生産物として本当にそれだけでいいのだろうか、と考えてしまいます。

失礼を承知でここに書いているのですが、ゼロアカ生の中で少なくとも現在、思考の強度、博学さにおいて、例えば若手の論者である荻上チキさんや福嶋亮大さんのような論客に一人で対抗できる者はいないのはないでしょうか。

つまり僕が言いたいのは、あの「ゼロアカ道場」の成果、生産物で重要なのは一人の論者を市場に送り出すことだけではなくて、そこでの出会いやコミュニケーションの総体も重要なのではないか、ということです。

ゼロアカはいわば「動物化」した人たちによるバトルロワイヤルだったと思うのですが、それが実はネットワーク型の集合知やチームによる生産と形に向かうということ。そのことをこれから僕たちはやっていかなければならないのではないでしょうか。

ゼロアカ参加者の10年代の展開を考えること。それがこれから起こってくるであろう知的ムーブメントに参加する形でなされていけばよいなー。

そこで「自分は(あいつは)何次関門に落ちた」とかでヒエラルキーを作っているのではなくて、それこそフラットにコミュニケーションを生成していけたらなーと思います。そんなことをしていたらそれそこ「底辺」の話になってしまいますし。

ゼロアカは話題になってもゼロアカ生たちの評価は低いのでそんなことをここで綴って、僕自身のこれからも考えていこうと思います。