「リア充 氏ね」のマジョリティ化について。

生き方としての「非モテ」、つまり、モテようとすることからおりる生き方自体は、もう普通に市民権を得つつあって(もちろんそれは都市部の中の一部での状況であろうけれども)、でもその生き方を貫くとモテたりして、確かに「非モテ」をアイデンティティとするメンタリティも突き詰めるとかっこいいのだけれども、問題はそのどちらにもいけない人々が実はリアル非モテで、しかもそういう人たちは結構な数がいるようだ、とか。

持たざるものとしての「非モテ」、持つものとしての「リア充」。このプロレタリアとブルジョワジーとの関係のようなわかりやすさ。そのわかりやすさをネタとして消費している感もある。

つまり、それはスケープゴートとして「リア充」を使用しているともいえるのではないだろうか。

たぶん、「非モテ」の生き方というものが一般化して明確な攻撃対象を生み出さない、ということが、マイノリティとしての「非モテ」という言葉が終了しつつある要因になっているのかもしれない。つまりフラストレーションの吹き上がる場所がない、ということだ。

現在、不況の影響もあり、「リア充」たりえることの希少価値自体が上昇しているように思う。この経済的な要因もこの「リア充」をスケープゴートにして憂さを晴らそうとするメンタリティの形成に影響を与えていると想像することはそんなに難しいことではない。

非モテ」から「リア充 氏ね」へ、という流れは、90年代、社会運動として「だめ連」が生き方のオルタナティブを提示しようとした時に、あっという間に時代のほうがその運動に追いつき追い越してしまった状況と似ているようにもみえる。

もしかしたら、2ちゃんとかはてなダイアリーとかの限定的なコミュニティの中で顕著な表象と片付けられる問題なのかもしれない。けれども、そこに僕は時代の空気の現れを読み取る。

確かに、何か変なのだ。

何が変なのかは頭の中にまとまらない経験や知識としてあるのだが、それらはまたまとめてブログ等に流していきたいと思う。