言説空間における〈政治≒戦略〉についてとかそんな感じのメモ的な何か。

僕は最近、言葉で人を説得しようという意欲があまり湧いてこなくて、説得するより何か自分で実行したほうがコストパフォーマンス高いし、まあそんな感じで生きています(もちろん降りかかった火の粉は払いますけれども)。

しかし、人間、生きているとそうやって不言実行だけではやっていけないところもあって、人を説得しなければならない局面に出くわすことが多々あります。一人で生きているわけではないですし。

それで、議論に強いほうが必ずしも正しいわけではない、とはわかっていてもやっちゃうこと、それが議論でもあります。

で、このエントリはその議論が必要になった時のお話です。

議論では、たとえ自分の意見が論理的に正確であってもそれを多くの人に伝えたいと思うのであれば、ただ主張の正しさを繰り返し投げかけるだけでは届きません、普通は。その主張を「利かせる」ためには下準備を考えなければならない。

言葉がまるで届かないとき、言葉の無力さに苛まれることもあるかもしれません。けれども、それは言葉に力がないのではなくて、言葉の力を発揮することの出来る舞台が用意されてないから言葉が届かないだけなのではないかと思います。

例えるなら魔方陣と作らないで魔法を発動させようとしているようなものです(比喩ですよ、あくまでも)。

いくらかの昔(20年くらい前までとか)にはその魔方陣や舞台は意識していなくてもいつの間にか作られていたのかもしれない。けれどもそれらは現在機能していない。それらがまるで当たり前のように存在していた時代の中に生きていたから、それがなくなった時、言葉の力のほうが消失したように感じてしまいます。

けれもどそうではない。

それは舞台設計や戦略性の欠如に起因する無力感だと僕は考えています。

ならば、どうするればよいのか?
どこにその伝えたいエネルギーを注ぎ込めばいいのか?

その戦略について考えることは、「政治」と「文学」の領域を便宜上、切断することを要請します。

「文学」的価値を守るために、「政治」の領域に足を踏み出さなければならないのかもしれません。少なくともそれは誰かがやらなければならない。

その「政治」における振る舞いこそが「場」を作り維持することであるのではないでしょうか。その「場」を生成することによって言葉を利かせるための舞台をまず作ることができる。

逆にいえば「場」を持たない言葉は空を切ってしまう。そんな状態がそこここに現れている、そんな時代に僕たちは生きているのではないでしょうか。

まずは「場」の生成を考えること。

そして次に言葉を「利かせる」ための戦略を考える上で重要なことは、その「場」の「外部」といかなる関係性を結ぶか、ということです。

この「場」の生成と「外部」との関係を如何に結ぶかを考えること。この2つがここでいう「政治」や「戦略」ということになるのではないでしょうか。

たとえ、市場とは別の価値があることを声高に叫んでも社会的承認がなければただただ衰退していくのみだと思います。

ちょっと過激な言い方をすると、言説空間の政治とは、如何に自分の論が正当性がありまた敵対する意見の論が誤っているかを印象付けるかにある、といっても過言ではないでしょう。それは論の正しさの証明というよりはむしろスポーツに近い感覚のものです。

この闘技的な言論の考え方は、アカデミックな研究とは異なり市場の論理に近いものですが、この日本ではその中で闘っていかなければ社会的承認が得ることが難しい時代になっているのではないでしょうか。

それは、いわゆる「ネオリベ」的思考を肯定してしまっていることになるのかもしれません。けれども、少なくともその中で闘っていく人が必要なのではないかとも思うのです。

実際、「文学」的な価値というものは市場とは連動しない形で形成されています。人が生きることと市場経済はイコールではないと思います。けれども、その価値を現在の社会の中で承認される形で考えていかないと、生き残ることが難しい時代に僕たちは生きている。そしてそれをやってこなかった歴史がある。

「文学」的価値を生き残らせる為には、市場というゲームボードにのって闘うプレイヤーが必要になっている。そのゲームプレーヤーになること、それが必要になってくるのだと思うのです。

だから、市場の価値に迎合しない皆さん、少なくとも僕はそんな人々と敵対しているわけではないということを伝えたい。「内部」にいるからって味方でない可能性はあるし、「外部」にいるから敵対している、というわけではないのです。

いってみれば、「どんな世界を作っていくか」、その点に僕は関心がある。方法論の問題だけではなくて。だから自らの正当性を訴えるだけでは不十分、と考えるわけです。