外部なき時代の祈りの場所について

 


 宇野常寛氏の新著『リトル・ピープルの時代』を読んだ。前作の『ゼロ年代の想像力』から約3年、久々の単著だ。基本的な主張の軸は前作と変わらないが、変化として感じられたことの一つは、「大きなもの」への想像力を取り戻す思考を目指す、という志向性だ。

 『ゼロ年代の想像力』においても宮台真司氏らの指摘があったが、宇野氏の言説は現代の政治哲学の先端と響き合っているといわれるが、今回の新著ではまったくクラスタが異なると考えられているとある政治哲学の主張との奇妙な響き合いを感じずにはいられなかった。
 いささかアクテュアリティに乏しいと思われるかもしれないが、その主張がもっとも象徴的に現れているのはネグリ=ハートの『〈帝国〉』(原題『Empire』)という著作である。原書は2001年に、邦訳版では2003年に発行されている。

 この両者は多くの共通点を有してるように思われる。

 まず決定的に似ていると思ったのは、その主張を決定する世界観だ。近代国家(つまりビッグブラザー)を超える力がこの世界を動かし始めているということ。そして、その力を構成している貨幣や情報のネットワーク化の全面化による外部性の喪失を前提として、論が展開されているということである。

 両者で使用される主要な概念を以下のような対応関係で観てみるとちょっと分かりやすくなるかもしれない。

 「大きなもの≒〈帝国〉」
 「小さな父≒マルチチュード

 まず、宇野氏の使用する概念から簡単に説明してみたい。

 小説家の村上春樹が2009年にエルサレム賞の受賞した際、スピーチで「卵と壁」の比喩を使い話題になったが、宇野氏は村上氏のその「壁」の把握に関して疑問を呈している。つまり、村上氏の「壁」のイメージは、近代国家が主体として振る舞えた時代のものから更新されていないのではないか、というのだ。この仮説はまだ議論の余地のあるものだと思うが、宇野氏における「大きなもの」とはこの「卵と壁」の比喩における「壁」に相当する。
 そして、この時代に生きる多くの人々は選択の余地がなくこの「壁」に関係せずにはいわれないと主張する。コミットメントを志向しようがしまいが、もはや「壁」と無関係ではいられない、というのだ。つまり、誰もが「小さな父」にならざるを得ない。すでに「父」(主体)は「なるもの」ではなく、必然的に「なっている」ものだということである。ここに宇野氏の村上氏への違和感の起点がある。いうなれば、ここでは村上氏は「父になろうとした」、というのだ。

 次に、ネグリ=ハートの使用する概念について。

 〈帝国〉とは、グローバルな貨幣や情報の交換を有効に調整する政治主体のことをいい、「マルチチュード」とは「多数性」(民衆)と訳される。つまり、〈帝国〉は「壁」であり、「マルチチュード」は「卵」である、ということもできるのではないだろうか。そして、本著作ではその「卵」を貨幣と情報のネットワークの外部性のなさを利用しつつ、来るべき民主主義を実現する可能性の主体として捉えているのだ。

 両者の間にある違いは、その「壁」の範囲規定にあるのかもしれない。「社会」と「世界」を区別して考えてる場合、ネグリ=ハートは「社会」(国際化された社会)を、宇野氏は「世界」(もしかしたら「セカイ」と記述した方が正しいのかもしれない)を志向しているのではないだろうか。『〈帝国〉』は新たな階級闘争のイメージ形成ために描かれたものであるのに対して、『リトル・ピープルの時代』ではあくまで個人を深く掘り下げることで革新への回路を開こうとする。後者は実存を深く潜ることで「世界」と繋がろうとする。

 ここである仮説が成り立つ。それは宇野氏が伝統的な意味で日本の批評の系譜に位置付けることができるのではないか、という仮説だ。

 批評家の杉田俊介氏は本人のTwitterの中でこう述べている。

「悪い意味ではないが、僕には、最近の「批評家」の多くはキュレーターにみえる。「キュレーションは情報を収集し、選別し、意味づけを与えて、それをみんなと共有すること」(佐々木俊尚)。小林秀雄以降の伝統的な意味での批評家は大澤信亮氏、藤田直哉氏くらいか(中島岳志氏は思想家にみえる)。2011年8月31日」

「伝統的な批評家とは、対象(社会、他者)の批評と自己の批評が不可分でありつつ、その言葉自体が独自の美や倫理へと結晶していく書き手。批評は終ったという立場も勿論ある。だから批評家か、キュレーターか、実証家(本当の科学者や経済学者になれないゆえの、中途半端な人も多いけど)か。三派鼎立。2011年8月31日」

 『〈帝国〉』では、マルチチュードが闘士であるのだけれども、そこには祈りが存在する。それは最後のアッシジの聖フランチェスコへの言及として現れている。
 宇野氏はどうか。ここで「闘士」を「仮面ライダー」に置き換えてみることができるかもしれない。ネグリ=ハートの祈りに当たるもの、それはあとがきに書かれていた父親への思いなのではないだろうか。
 「父になること」の歴史的変遷。それは『リトル・ピープルの時代』が示しているように「ここではないどこか」ではなく「いまここ」を深く掘り下げることによって到達した、「自己言及=批評」という小林秀雄から続く日本批評の系譜を宇野氏がいつのまにか継承しているということのメルクマールであるのかもしれない。
 そして、実存には常に祈りが付きまとう。それはある種のゴーストのようなものだ。だが、その祈りとは拡張現実の時代をドライブさせる大きな原動力なのではないだろうか。