『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人 著)、問われざる前提としての「ナショナリズム」について。

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)


ナショナリズムという概念を自らの思想体系の中でどう位置づけるか。それは日本における人文思想系のコミュニティにおける承認の基準になっています。つまり、「ナショナリズムか反ナショナリズムか」という2項対立の中で世界が動いていることが重要な軸として想定されているのです。

このようなコミュニティの論理は、著者の萱野さんが対象としている日本の人文思想業界に限らず、至る所で散見されます。それはコミュニティを維持するための仕組みとして機能している。根拠の無根拠性は隠蔽されそれを露わにしようとすると、そのコミュニティから排除の対象となってしまいます。そして、その排除に対する感情が同調圧力として現れ、コミュニティの安定とアイデンティティが維持されている。

本書は、日本の人文思想界が前提としてきたフレームを根本的に問い直すということを主旨していますが、その議論の射程距離は日本の社会やコミュニティのあり方にまで拡張することができるのではないでしょうか。例えば、「原子力ムラ」が特殊なわけではなく同じような構造は批判的な立場の集団にもある、といったように。

萱野さんはナショナリズムを肯定するにあたり、その範囲を限定しています。基本的に「国家は国民のために存在するべきであり、国民の生活を保証すべきである」、と。そして、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムを明確に批判します。つまり、ここで肯定しているのは国家を縛る原理としてのナショナリズムなのです。

日本におけるナショナリズムを巡る言説空間の特異性を、著者は大学院に留学していたフランスとの状況比較によって発見しています。そして、日本においては倫理に対する考え方に偏りがある、としています。倫理には、心情倫理と責任倫理との2つがあり、それぞれ道徳と政治に対応するのですが、日本ではナショナリズムを論ずるにあたって前者の論理で動きすぎている、と。そして、ナショナリズムの危険は政治的にしか縮減できないと、著者は考えているのです。

よくあるナショナリズム批判として、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という概念の使用の仕方が挙げられています。アンダーソンは「想像の共同体」という概念を、直接顔をあわせられる人間関係の範囲を超えたあらゆる共同体に対してもちいているのですが、例えばナショナリズムと対置されやすいインターナショナリズムこそ、ネーションよりもっと抽象的な「想像の共同体」に立脚しなければ成り立ちえないものであると。ネーションを「想像の共同体」だとして批判しておいてインターナショナリズムを志向することは、倫理的矛盾なしにはできないということを指摘しています。

そしてナショナルなものが立ち上がってくる上で、出版資本主義の発展が重要になってきます。その発展が新聞や小説などの大量流通を可能にし、国民語の成立を可能にし、ナショナルなものの成立に大きく関与した、と。ある人間の集合は、共通の言語をもつと考えられるようになったからこそ主権をもつ共同体だと想像されるようになったという歴史的な背景。なぜ共通の言語が重要かというと、人間のあいだの意思決定は言語によってなされるから。ナショナリズムは表象の問題である以前に、社会編成の問題であるのです。

また、ナショナリズムというものはファシズムと関連付けられて語られることが多いけれども、国民国家はかならずしもファシズムに向かうわけではない、という指摘があります。ドゥルーズ=ガタリによれば、国民国家ファシズムに向かわせる最大の要因は、国内市場の衰退という歴史的状況と、国外市場の拡大を重視することで逆にその国内市場の衰退を放置したり加速させたりしていまうような経済政策にある、と。つまり、労働市場グローバル化を通じた国内経済の崩壊によってナショナリズムが排外主義へと向かうことを防ぐには、ナショナリズムの中にとどまってナショナリズムそのものを書き換えいくことが必要である、というのがこの本での結論のひとつとなっています。

本書は、ナショナリズムに依存しながらそれをみないようにして批判するという態度に対して根源的な問題提起をしています。問題の所在を明らかにすること、まずそのことが今の私たちには必要なことなのではないでしょうか。

この問題提起によって、日本のナショナリズムを巡る言説空間に様々な議論が起こることを期待しています。なぜなら、この日本社会のあり方とその言説空間はおそらくは共依存の関係にある、と思うからです。