生きるということに社会的包摂は常に含んでいるものなのか、おそらくことはそう単純なものではなくなくない、といってみたがやはりそれも包摂で、、、

どこまでも追ってくる。
もう逃げ場所はない。
何故、自己充足的な空間さえも奪われてしまうのか?
とにかく、適度に放置してくれる空間はどこにあるのか?

もうネットの中だけなのか?

オタク文化はおそらく大文字の社会に包摂されつつあるのだ。
聖地は蹂躙され続けている。

金になれば、面白ければ・・・
秋葉原のテーマパーク化。

その変化によって「受容された」と思うもの、「もうアキバは終わりや」と思うもの。
おそらくはこの両者がいて、コアなメンバーは後者である比率が高いのだろう。

そしてそのどちらにも属せないものの存在。
その存在にはテーマパークは「敵の舞台」に見える瞬間があるのかもしれない。

宮台真司は本人のブログの中でこう綴っている。

「2000年前後の秋葉原は、
森川嘉一郎が『趣都の誕生』で記述したように「コアなオタク」が、
一人で出かける怪しい場所だった。
だがメイド喫茶で見かけるのはこうした「コアなオタク」ではなく、
連れ立って訪れる「半オタク」的な存在だ。
メイド喫茶はオタクアイテムが「コミュニケーションの戯れ」のネタに利用されるようになった状況を表わす。」

秋葉原事件は、オタクになっても救われない若者がいるという今日的なコミュニケーションの状況を示すだろう。
秋葉原事件の被害者は多くが、オタクの「コミュニケーションの戯れ」化を象徴するかのように、連れ立って秋葉原に来ていた若者たちだった。
今日、「友達がいない者」にとっては、秋葉原でさえ居場所にならないということなのだ。」

「かつてはオタク文化が、代替的地位達成を可能にすることで、社会的包摂の機能を果たした。ところが、かつてオタク文化に包摂され得た者が今日では包摂されなくなった。これは皮肉にも、かつてはオタクとして排除された者が、ネット文化が社会的包摂の機能を果たすようになって、「コミュニケーションの戯れ」に興じられるようになったからだ。」

しかし・・・と僕は思ってしまう。
これは、本当に社会的包摂の問題なのか、
それで解決する問題なのか、という風に。

まあ、
単なる感傷的な感想ですが、
そこに対するためらいみたいなものが、
求められているのではとも思うのです。

ただ、その感傷さの存在で生きていける、それだけで何とかしばらく生きていける、と思う人もいるのではないか、とも思うのです。

それこそ、強力な包摂であるのだけれど。