映画とコタツと沈没と。

園子温監督の「愛のむきだし」をユーロスペースにて鑑賞。

4時間という上映時間のわりに最後まで飽きさせないエンターティメント性は一般的に十分に耐えうるものだった。シモネタが多すぎるけども、多いことで嫌らしさを緩和していた。徹底してシモネタも多発すると(4時間も)慣れてきて普通のことに思えてくる。園子温が見ているこの世界はおそらくはそのように見えているのではないかと思うし、結構のパーセンテージの人々がその世界観に賛同もするのではないかと思います。

後半ヒロインが暗証する「コリントの信徒への手紙一 / 13章」。このシーンはこの映画の大きな見せ場のひとつだ。その言葉が多元的に響き渡るための映画だったともいえるのかもしれない。

「コリントの信徒への手紙一 13章

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 」