濱野智史氏の「自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性」を読んで思ったこと。

濱野智史氏の「自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性」(http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2009/09/post.php)を興味深く読みました。

濱野氏の関心の焦点を、神学者ラインホールド・ニーバーの有名な言葉をもじって、「変えることのできなかったもの《を》変えることができるようになったかどうかを、識別する知恵」と、説明されたのが印象的。

あのニーバーの言葉、確か宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』にも引用されていたと記憶しています。もしかしたら、サバイブ系の想像力を生態系論・自己組織化論に接続することを目的のひとつにして、本論が書かれているのかもしれないなーと思いました。

サバイブ系の想像力への警戒と注釈。そのようにも読むことが可能なのかもしれません。でも、そうなっていくとどんどん「研究」的になっていくなー。つまり、とても精緻でよい仕事をされているのだが、(上から目線チックで申し訳ないが、読み手側としては、ですよ)影響を与える範囲が限定的になるだろうと直感します。言ってみればそれは、ツリー状に深まっていく形の言説で、何故そこが問題視されるのかはそのツリーを遡らなければわかりにくい、という特徴を持ち始めているいるように思える。もちろん、それが悪いことではないのだけれども。

僕なんかも「生態系の想像力」には関心が高いので、この文章を無視して何か考えることはできないなーと思います。

あとこれは特に個人的な興味ですが、濱野氏の問題意識の場所と氏の自意識との接点は何処にあるのだろうというところが気になります。というのは、論の方向性と論理の精緻さの他に訴えかけるようなものが印象として残らない。つまりシンクロするところがないように思えるからです。

少し感傷的な言い方をすれば、この時代の環境の中で、自意識というものが変容・移動しているように見えるのですが、その問題意識がすっぽりと抜けているように感じる。それが個性であり氏の考える批評(?)となのかもしれませんが、「現代思想」を今この日本で語る時に、その問題意識が作品にまったくといってよいほど反映されていないのはどうなのだろう。

今更、「サルトルフーコー論争」みたいな話になってしまいますが、しかしつまり僕が思ってしまうのは、彼の置かれた環境に順応し支配されているように見えてしまうのです。

これはただの思考材料の選択におけるスタイルの違いかもしれない。僕はどうしてもまず矛盾や痛みから思考を始める傾向があるし、それを払拭できないでいる。その意味で古い人間なのかもしれない。けれどもそれでも、批評の核心はそこにあると考えているのです。