「ホワイトカラーの批評とブルーカラーの批評。」

最近の批評界の動向をぼんやりと眺めていて思うことがあります。

それは、『思想地図』の東浩紀さんの「今後、批評では、表象文化論的な作家論、作品論は主流になりえない。社会学的な知や工学的な知とも交雑したハイブリッドなものになるほかなく、それは同時にポストモダニズムの幻影との完全な決別を意味する」(http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090929)という来るべき批評のコンセプトが対象とする読者、及びその影響力の階層属性についてです。

僕自身もその批評の方向性は、通時的にも共時的にみても正しいとは思います。
ただ、何となく読んでいて居心地が悪い。
というのは、それはあらゆる領域を横断しながら、社会学的・工学的に考えているように振る舞いながら、空間的な広がり、階層的な広がりにつながっていかないような印象を受けるからです。これは何が正しいとかそういう問題ではなく、端的に書き手の置かれている経済的・政治的・社会的な階層の相違なのではないかと思います。

確かにアーキテクチャはすべての人に無縁なものではありません。けれど、その分析は主に批評家がするものなのでしょうか。これは僕の単なる予想にしかすぎないのですが、この領域でいわゆる職業批評家たちがアカデミシャンや現場の人々よりもよい仕事をするとは思えないところがあります。

今ある何かを変えていくこと、「革命」していくこと。こぼれ落ちるものを拾い上げていくこと。ガラクタを集めて道具を作ること。僕にとって批評とはたぶんそういったものです。『思想地図』はたぶんそのための道具はちりばめられている。けれど、その道具を使って何かを変えていくのは、佐々木敦さんがいっているような(http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200909170300.html)「作家論」、「作品論」を描く批評家かもしれません。