最近「非モテ」理論の構築を考えている。

リア充」的価値観に対するカウンターとしての「非モテ」文化。

漫画、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどのコンテンツを愛すること。これらはモテない趣味であり、その趣味をカミングアウトすることにはすがすがしさを感じる。これは少し「ヤマンバギャル」の登場の時に感じたすがすがしさににているかもしれない。つまり、モテることよりもその趣味を愛していることの方が重要と宣言しているに等しい。

それでいて、「べ、べつに、モテたいなんて思ってないんだからね!」的な「ツンデレ」系の感覚の共有も「非モテ」文化圏のアイデンティティの一部のような気がする。それは自己を距離を置いたところから眺めて、自らを笑うことのできる精神構造を有している。その意味でルサンチマンの思想とは差異線を引くことが可能なのではないだろうか。

Twitterにおける「非モテクラスターの存在。
非モテ」を楽しむ人たちの存在。豊かな「非モテ」生活。

そして、モテる「非モテ」たちの存在。「非モテ」はある意味、ジェンダーを越えた硬派さを持っているのではないか。そこが異性に受けるところであるのかもしれない。ただ、需要に関しても一定の層のかたよりはあるだろう。文化系女子にはモテる?不思議ちゃん系、森ガール系にモテるとか。

自らの好みに関する開き直りとそれによって失われるものへのツンデレ的反応の両方を有しながら、一つの文化圏を構築しつつある「非モテ」。

2次元に対する「愛」について。2次元と3次元の優劣関係への感覚的アンチテーゼ。2次元やネットはバーチャルな
ものではなく、それはそれそのものでしかない。つまり、2次元は2次元だし、ネットはネットでしかないのであって、それもまた現実であり、2次元と3次元が単純な従属関係を結んでいるのではない、ということ。

非モテ」文化圏の登場はその実践的な証明であり、新たな社会的身体の受け入れの問題と切り離すことのできない問題である。

またそれは、この世の中の生きづらさを考える上でもよいヒントが隠されているのではないかと思われる。
それに、デジタルネイティブ世代とそれ以前の世代の感覚的な違いについてもそこから考えることが可能なのではないか。それは未だ、言葉で説明されていない分野であり、それを考えていくことは移行期に生きた僕達の仕事でもあるような気がする。