「非モテ1.0」と「非モテ2.0」について

はてなダイアリーとかで「非モテ」について語るとそれまでの論争史を押さえていないと何もいえないような風潮もあるようですが、そのある意味、権威的かつエリート主義的な思考とは別に「非モテ」の回路を生産することも可能かと思われるので、ここに綴ってみよう。

ここでいう「非モテ」とはカテゴリーとしては一般的に使用されるように「ただ異性にもてない」、という話には留まらずいわゆる「草食系男子」もその範疇に加えることもできる文化的な概念だ。いわゆる「リア充」的なモテ志向型のカルチャーではなくそのカウンターカルチャーとしての非モテカルチャー。それが現在、わかりやすい形で展開しているようにみえる。

その表象としてあげらるのはtwitterの中の「非モテクラスタである。そこでのコミュニケーションは、2ちゃんねる的なマッチョなコミュニケーション空間でもなく、ブログ(特にはてなダイアリー)に見られるような全人格的なネットへの没入傾向も薄い。断片的なコミュニケーションがクラスタ、つまりゆるいコミュニティを生成するにいたっているようにみえる。これまでのネット文化に乗れなかった人々、感性的にも、コミュニケーションのあり方にしてもそこにコミットすることが出来なかった人々がそこに流れ込んでいっているような感もあるように思える。

そのコミュニケーションのあり方の特徴としてあげることができると思われるのは、ネットとリアルの境界線というものがだんだんと曖昧になってきているということだ。それは日常を思いつくままに書き連ねるのだから直に日常に直結するのは当然なのだが、そのリアルタイム性はそのネットの文化圏を日常生活のレベルまで浸透、接続させることに成功しているようにみえる。そこで、今まで断絶があったネット文化とリアル文化との間をつなぐ役割を果たすようにもなってきているのではないでしょうか。つまり、ネット文化がスムーズにリアル文化になりえるということ。ここに「非モテ」カルチャーも立ち現れてきた。

これはあくまで仮説の域を出ない話なのだが、twitter上のアカウントのアイコンや文体だけでは、男女の性別の判別が難しくなってきているように思われる。僕は、2ちゃんねる、ブログ文化(特にはてなダイアリー)は男性ジェンダーの色彩の強い場であったと思っているのが、twitterにはそれが薄い(もちろん存在はするが)。そしてこの感性は、もう既にリアルにおいても共有されつつある感覚なのではないだろうか。

ここで注意したいのは、ジェンダーセクシャリティとの関係だ。僕は、この2つは分けて考えたいと思っている。ここ取り上げている内容の性差は文化的性差、つまりジェンダーであり、生物学的な性差、つまりセクシャリティのことを意味してはいない。ここを一緒くたにしてしまうとジェンダーセクシャリティが強固に結びついてしまって、性差の本質主義の方へ流れがちだ。だからそこには注意しておきたい。それの何が暴力的かというと、性差を本質として捉えることで色々なジェンダーのあり方にとても抑圧的に作用してしまうからだ。

そこに「非モテ」カルチャーを1.0から2.0にバージョンアップさせる必要性が出てくる。

僕は定義はこうだ。
非モテ1.0」とは、モテ資本の再分配を要求するルサンチマンをその原動力とする文化圏。
そして、「非モテ2.0」とは、そのモテ資本主義、モテ至上主義からおりること、そこから離れて中性的で自分たちにとって居心地のよい場を生成した結果生まれた文化圏。

この「非モテ2.0」は、90年代にメディアでよく取り上げられていた自我の抑圧から起きた様々な現象、例えば、ひきこもりとかリストカットとか生きづらさから生まれる諸問題からいまだ何ら解決の芽をみない現在、むしろ空気の読み合いやバトルロワイヤル的な状況の強まっていった現在、当事者たちによって作り出されたひとつの生態系なのではないかと思うのだ。

ここで、90年代からゼロ年代の自己意識における問題系が架け橋される。

僕たちが考えていくこと、で重要なことのひとつはそこにあるのかもしれない。