文学における身体性の再構築とアーキテクチャ批評を統合すること。

 最近、何となく思っていることでも。。


 2008年に出版されて話題を集めた『夜戦と永遠 フーコーラカンルジャンドル』の著者・佐々木中氏の新刊『切りとれ、あの祈る手を――<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』が2010年10月30日に出版された。その評判は好評とよべるものだと思う。そして、その著作に対する一種のカウンターともいえる書評が12月1日に発表された。紀伊国屋の書評空間に掲載されている文芸評論家・福嶋亮大氏による書評である。
 その書評は佐々木氏の「情報」に関する認識における問題に向けて攻撃の触手が向けられているものだ。まさしくこの書評自体が「情報戦」の一部であり、また、その博学さを伴った文学における歴史認識は「正統」なものであるのだろう。

 しかし僕は、この書評が本来「情報」を巡る歴史認識の問題が視点であるはずものが、わかりやすい形での対立構造に簡略化されて広まってしまうのではないかという懸念を感じてしまった。もちろん出版業界全体からすれば、そういったプロレス的なやり方は書籍の売れ行きに良い影響を与えるものだろうから、そのような文脈で書かれたものであっても有意義ということは出来るのかもしれない。
 けれども、この実存主義構造主義の対立を彷彿させるような議論が簡略化されシュミラークル化していく状況をみていて、多少のげんなり感を持つのは僕だけではないのではないだろうか。
 元々、東浩紀氏の議論への批判が暗に示されているのだから、そのラインに乗っているようにみえる福嶋氏がそのカウンターを撃つ、ということには理解が出来る。それは一種の売り言葉に買い言葉、ということだと思うのだが、もともと2つの文学評論の潮流は対立するものではないのではないかと思う。

 書かれる「目的」自体が異なるのだ。もっと言えば「機能」が異なるというべきか。

 佐々木中的な文学の身体性も、書籍によって構築されているものであるならば、書籍を取り巻く構造と無関係ではいられない。産業構造や貨幣経済、グローバリゼーション、それらの問題と無関係な上で形成されているものではない。
 アーキテクチャ批評についても何故その行為をするのかという動機付けは個人の身体性を抜きにして語ることはできないだろうと思われる。極論を言えば、個人の関心や動機付けのもとにそれらは書かれているし、それは否定することは難しいだろう。佐々木氏の文学による「革命」がある種、個人に対するサプリメントとしての機能を果たしていると批判してもそれ自体を批判することはできないのではないだろうか。
 よってその機能に応じて両方読む、というのが理想的な読者であるように思われる。お互いに教条主義に陥ってコミュニティを形成し対立する、という風景はさすがに見飽きた感がある。つまり「やれやれ」、だ。

 正直、「運動」としての文学に興味のある人は前者に軸足を置き、後者の批判を行なう傾向があるように思えるし、文化系エリート系の人は後者に軸足を置き、前者を批判的にみることを多いような印象を受ける。実際、この2つの立場は、それぞれに高い専門性を備えていて、それらはある種の役割分担ともいえる社会的状況があるように思われる。だから、この対立構造に基づいても煽っても生産的とは思えない。プロレスかヘゲモニー争いになってしまう。しかし、もっと読者の目を豊かなものにするという文学の役割もあるのではないだろうか。

 対立構造を弁証法的に止揚するのではなく、有機的な関係に結び直してそれを言語化するということ。そのことが社会性、公共性を生成することでもあるのではないだろうか。そのことが現在の思想業界を活性化させる回路になるのではないかと思う。

 近い将来、この2つの思想へのアプローチの仕方が同じ媒体に違和感なく並べられる状況がくることをぼんやりと考えていたりする。