創作活動におけるフィールドの設定の仕方について。

昨日は旅の話をちょっとしたので、 今日は創作活動の話でも。今まで創作というのも色々とやってきたのですが、一番思い出深いのは演劇かもしれません。まぁ、やってたと言っても全然大したことはなくて、3作脚本を書いてそのうち2作を上演したことがある、というくらいなのですが。それも随分と前のこと。何故早々とその活動をやめてしまったかというと、これは前のエントリの旅の話に繋がることですが、作品世界が、実社会で次々と起こる出来事に圧倒的に負けている、と思ったからです。それは僕の作るものだけでなく、世の中のほとんどがそのように感じられた。もちろん例外もありました。しかし大体、そのほとんどは莫大な資金のもとに成立していたり。

そうなってくると、創作でその現実と格闘することはあまり効率の宜しくないことだと思い始めた。ほとんど自慰行為に過ぎないのではないか、と。今は少し考え方は変わっていますが。創作にはステマ的に現実に影響を与えうるし、それを書き換える可能性すらあると思っています。ただ、当時は演劇業界とかとても内輪のノリで、そこにいることに価値を見出せなかったんですね。当時、僕はどのような作品を作りたいかその基準を大きく分けて2つ持っていました。 ひとつは「いまここ」を濃縮・圧縮した作品。そして、もうひとつは未来を預言するような作品。今では、これ以外にも複数の評価基準を持っていますが、その頃の僕には自分が何かを作るにあたり、この二つの基準がとても重要だったのです。その劇がやられる前と後では決定的に何かが変わってしまうようなものを作りたかった。そうでなければ、作る意味すらない、と。

で、また旅の話になっちゃいますが(笑)、異国の人や文化に触れ、コミュニケーションを取り様々なトラブルに巻き込まれたりと慣れない場所で起こることは、わざわざ劇など作る必要がないと思うくらいに劇的なものだと思ったのです。なんだ、劇なんか作る必要ないじゃん、と。むしろ多くの芸術的とされる行為は、現状を維持するためのガス抜きのようなものでもあるのではないか、と。それはそれでとても重要なものだと思ってますよ、今では。僕がportBに関心を持っているのにはそういった理由もあるんですね。

今はミニコミ作ったりたまにイベントやったりとかしているわけですが、それも基本的には世の中に演劇作品を仕掛ける、という意識に近いところが結構あります。世の中の仕組みの現状を読み取り、そこにどのような回路を投げ込めばどのようになるのかと。それが生み出される前と後では何が変わるのか、そのことはやはり意識していますね。その辺はちょっと変に気負い過ぎかなとも思いますが。 ほんとはもっと気楽に世捨て人的なポジションで淡々と世の中と遊んでいたくもあります。ただ、その楽しみ方の強度はどんどん上げていきたい。そのためには体力も必要!と去年からジムに通ってたりします。あまり関係ないかもしれないけど、